●ジムニーエイトと管理人8mano
 
これまで、修理の様子や情報は紹介してきましたが、管理人8manoとエイトの関係について多くを語った事はありませんでした。しかし大掛かりな修理を行って気持ちがすっきりした事と、何故そこまでエイトに拘るのかという質問も多いため、長くはなりますが紹介してみようと思います。非常に長い文章ですし、8mano本人のココロのアルバム整理に近いものでもあります。興味をもたれた方は一読してみてください。


History of my Jimny8
 
 僕がSJ20と出合ったのは東京に住んでいた1983年頃の話です。今では名車とか希少車と言われますが、その頃にSJ20を名車と思っていたのは本当に一部のマニアだけでした。我が家には1981年に新車で購入した「新型ジムニー」赤いSJ30Vの初期型がありましたが、ある日突然緑色のSJ20に入れ替わっていました。当時は八王子のジムニークラブに入っていて、そこで教えてもらったお店で2年落ちくらいのピカピカの新型ジムニーとSJ20を、お金を足してまでして交換したそうです。そのSJ20も2年落ちですけれど。それ以来、SJ20との生活が始まりました。そのSJ20が、今も所有している白いSJ20そのものです。僕は2歳か3歳でした。

 この緑色のエイトはしばらくの間は改造されずに乗られていましたが、調布のジープセンターに転がっていたという、Jeepのレーサー用のロールバーを譲ってもらって無理やり取り付けていました。本来は運転席だけを保護するものだったので、エイトに取り付けると「転んだら肩が削れそうだ」と言っていました。この頃はまだ薄かった4×4マガジンにカラーで掲載されたこともありました。

 そのうち、以前にSJ30に取り付けていたラグナというホイールと、ワイルドトラックというワイドタイヤが装着されました。今のように国内で簡単に部品が手に入る時代ではなかったのと、独占的な販売でしたから当時はとても高価で、それでも軟らかいサイドウォールをもったタイヤには感動させられたのでしょう。そのときにオーバーフェンダーも取り付けられました。サスペンションもSORAのエイト用で、自作したロングシャックルとモンローのショックがついていました。これらの部品の一部は、改良を加えながら今も使っています。





 兵庫県に引越しして、父はジムニークラブの姫路支部を立ち上げました。事務局になっていたオフロードサービスタニグチさんで、チューブのバンパーを作ってもらって、ランプもシビエのランプに交換しています。「ノンスリ」も入れました。まだタニグチさんは小さなお店で、社長さんがまだ小さい僕ににスイカを食べさせてくれたり、併設されていたコンテナ喫茶でジュースを飲んだりした思い出があります。

 当時からオフロードにもよく出かけていて、僕と弟はよく一緒に連れて行ってもらいました。僕と弟が乗るには後ろの座席が狭いので、前向きに改造してシートベルトも追加されていました。それでも雪山に行く時は後ろだと寒いので、助手席に弟と二人でまとめて座り、シートベルトで縛っていました。ヒーターの風が出るところに、手をかざしたり足を置いたりして温まっていたのです。知っている限り、エイトはスタックしたことなんてありませんでした。「エイトはつよいクルマ」と、父はよく言っていました。無線機もついていて、無線で話すときはへんなしゃべり方になるのが面白いなといつも思っていました。

 オフロードばかりではなくて、幼稚園の送り迎え、キャンプや海水浴にも家族全員がこのエイトで出かけていました。潮干狩りでびしょびしょに濡れてしまったパンツを、エイトに干して乾かしました。遠くへ出かけたとき、父はとても眠そうで途中で休憩します。運転席で仮眠をとる父の姿を、助手席の低い位置から見上げていました。エイトの中は、幌の匂いと父のタバコ”キャスター”の匂いが混ざった独特の匂いがして、その匂いが大好きでした。そういえば父も、同じ匂いでした。



 
 緑色のエイトは、ある日父の勤める鉄工所で真っ黒になりました。幌も、タニグチさんで買った白いべストップに変わっていて、ロールバーも鉄工所で作ったものに交換して、トゥーバーもついています。シートは、マーチの事故車から外したと言っていました。当時少年だった僕にとってはこれ以上ないくらい素敵な自動車でした。今思うと、まだ4×4の改造がアメリカを向いていた頃とはいえ上手いルックスのまとめ方だと思います。この頃は、新しく入れ替えた「ニューマッドテレーン」というタイヤに変わっていました。このタイヤとホイールは、外しておいたある日、盗まれてしまいました。お願いだから返してほしいです。一度、友達に「こんなクルマ、お前んちにないやろ〜」と自慢したとき、くだらない自慢をして、優位に立ったような気になるなと、凄く怒られました。それ以来、他人にエイトを自慢するのはやめました。

 エイトが黒色になった頃、初めて運転を教えてもらいました。小学4年か、5年生位の頃でしたが、自分の手で自動車が動くことにものすごく感動しました。それ以来、休みの日には河原へ行って運転の練習をしました。はじめは父がギアを変えていましたが、だんだん自分で変えられるようになって、坂道も登れるようになりました。このおかげで免許をとるのがとても楽でした。この頃父は、「エイトはお前にやるから」とよく言っていました。

 エイトと共に過ごしていると、子供にはよく解らないことが起こります。ある日、父は黄土色のエイトで引っ張られて帰ってきました。どうやら一万円で書類なしのエイトを買ってきたようでした。書類が無いから登録できないと言っていましたが、ガレージの中に黒いエイト、外の倉庫の隣には黄土色のエイトがありました。このエイトは家を建てるのに置き場がなくなるからと、どこかでトライアルをしている人に売られてゆきました。僕と弟は売らないでほしいと言いましたが、仕方なかったのです。父は僕と弟に、そのエイトの代金から1000円をくれました。罪滅ぼしだったのでしょう。あのエイトは今どうしているのでしょうか。



 
 この頃から、エイトを改造したり、整備したりするのを手伝うようになりました。とは言っても僕は遊んでいるばっかりで、弟がレンチを渡したり、ネジを拾ったりしていました。それでも、エンジンを事故車のジムニー1000のエンジンに積み替えるときはちゃんと手伝いました。小学校で冬休みの報告をするときに、父とクルマのエンジンを積み替えたと言ったら、先生も同級生も、みんなで「嘘をつくな」と言いました。本当の話なのに。僕は泣きそうになりました。多くの人は、自分が知らない事はみんな嘘だと思うんだな、と思いました。見てもいないくせに。

 父が買ってくれたミニ四駆を経て、僕は自分でお金をためて本格的なラジコンを買って夢中になっていました。僕はお小遣いを全てミニ四駆に使ってしまうので、お小遣いはありませんから、お使いをしてお金を貯めたのです。毎日改造に明け暮れて、そうしているうちにもう自動車に夢中です。初めて自分の力で何かを手に入れるという事の意味を知りました。そしていつの間にか、エイトが特別大好きになっていました。ジムニーと名のつく本は全て読み漁りました。知識は学校の勉強と違ってスポンジに吸い込むように身についてゆきました。でも、エイトのことを書いてある本はほとんど無くて、CCVというものすごく高い本に載っているのを見つけてドキドキしながら買いました。

 そうしてエイトという自動車を知っていった中学生時代。ジープやランクル、またSJ30のジムニー、そしてギャランなどの別の車があったからなのか、父はあまりエイトに乗らなくなりました。そんなある日、僕は父にこう言ったことがあります。「うちのエイトは偽物だからだめだよ」エンジンが1000ccだったから、僕はそう言ったのです。すると父は、「それなら、もう売ってしまおう」と、とても悲しい顔で言いました。このとき、一台の自動車を長く所有してきた人間の気持ちを知り、そして自分の中でのエイトの存在をはっきりと理解りました。日々の暮らしからエイトが無くなってしまう事が、どれだけ悲しい事なのか、エイトがどういう存在なのか。足りない脳みそに焼印が押されたのはこの時だったと思います。

 その証として、僕はエイトのキーを父からもらいました。そして走らせることのできないエイトのエンジンを、毎日かけに行きました。キーにはエイトボールのキーホルダーをつけて、中学、高校と毎日365日持ち歩いていました。整備も少しずつやりはじめました。整備書なんて無いし、誰も教えてくれないので古いオートメカニックという本を父にもらって、トイレや布団の中で読んで勉強しました。そうして高校にあがる頃、祖父がJA22のジムニーを新車で購入しました。僕は家業を手伝ってお金をもらっていたので、そのお金でコツコツとJA22を改造し始めました。父はいつも「無駄なことをするな。エイトで十分や」と言っていましたが、この頃はその意味が解っていませんでした。



 
 そうしているうちに、免許をとれる時期が近づいてきました。その時にふと思ったのです。

「白にしよう」

 自転車をこいでこいで、パテを買いに行きました。サフェーサーも買い込んで、白いペンキは色々と調べてエナメル塗料にしました。塗装は全て剥離しようと思い、剥離剤も買いました。黒い塗装、緑の塗装をどんどん剥がしました。そうすると、過去にオフロードでぶつけたところを何度も修理した痕が出てきました。父は何も言っていませんでしたが、父のエイトとの接し方が、この時解ったのです。

 そういえば神戸で売りに出た初期型のエイトも購入しました。生まれて初めて、自分のお金で購入した自動車でした。父に久しぶりにエイトを運転してもらって、神戸まで見に行って決めました。エイトのことになると父の足取りも軽いようでした。そのエイトのフレームは、現在四国で生きています。今思うと、父と同じことをしているのがおかしいですね。

 エイトの状態はそれほど悪くは見えませんでしたが、それでもへこんでいたり、錆びて穴が沢山ありました。普通のトンカチで叩いて直して、パテで埋めました。錆びて穴が開いているところには、アルミの板を鉄板ビスで留めてコーキングして隙間を埋めてから、パテを盛って平らにしました。そして免許取得の少し前に白いペンキでその鉄板を塗りこめました。やり方なんて知らないので、自分で勉強しました。真っ白になったエイトは、とても綺麗で生まれかわったようで、僕もエイトも誇らしい気持ちでした。そしてその白いエイトに乗って、僕は大阪へ旅立ちました。大阪へ旅立ってしばらくすると、病を患い入院していた祖父が亡くなりました。病院への送り迎えなどは僕がJA22を運転して行きました。お見舞いもJA22で行って、祖父の病室から見える位置に駐車するのがお決まりでした。祖父は僕が免許を取るのをとても楽しみにしていましたが、エイトの助手席に乗せてあげる事ができなかったのがとにかく残念です。



 
 大阪で生活を共にしていると、今までの無理がきたのか、あちこち壊れはじめました。故障するたびに、自分で修理しました。他人に直してもらう気は全くありませんでした。まだ一般的でなかったインターネットをできるようにして、そのおかげでエイト友達もできました。今でも仲良くしている仲間は、このときの交流がきっかけでした。自動車で人と人がつながってゆくのは、初めての経験でした。大学でも4×4に乗る友達ができて、一緒にオフロードへ出かけていました。名阪国道近辺のオフロードコースなどは、ほとんど走りました。

 修理をしながら、オフロードを走りながら、バケットシートを取り付けて、サスペンションやタイヤも交換しました。修理しても修理しても、あちこちが壊れます。道路で動けなくなったことも沢山ありました。そしてどんどん修理しました。北海道から無料で部品を送ってもらったり、川に沈んで助けに来てもらったり、とにかく仲間に助けられてばかりでした。

 突然ブレーキがきかなくなったり、ミッションが壊れたかと思うとトランスファが壊れました。全て直すとプロペラシャフトもいかれました。ブレーキドラムもガタガタになりました。メーターのワイヤーが切れ、アクセルのワイヤーも切れました。全部修理しましたが、ぶつけたところは修理しませんでした。あるとき、「こういう車に乗っているということは、ものすごく贅沢なんだよ」と言われました。僕はお金なんて無いのに何を言っているんだろうと思いましたが、今ではその意味も解ります。

 そうやって過ごしてしばらくすると、僕はエイトで交通事故を起こします。近道のくねくねした道を気分良く走っているとき、カーブの終わりに止まっていた乗用車を避けようとして追突しました。エイトは顔をしかめてしまいました。相手は追突慣れしていて、いつの間にか人身事故になり、それがきっかけで免許が取り消しになりました。僕は荒れました。毎日毎日お酒を呑んで、フラフラ。学校も行きませんでした。とにかくアルバイトを二つして、スキーやサーフィンなどの「乗る」遊びに没頭しました。オートバイや自動車で駆ける感覚を求めていましたが、ボッカリと空いた穴は決して埋まりませんでした。

 そういう生活にも飽きた頃、ようやく他人のこと、自分のこと、自動車やオートバイ、好きなものの事を考え始めました。生まれて初めて心から反省し、自分を改めようと思いました。「今はどん底かもしれないけれど、この角度で落ちたんだから、絶対同じ角度で上昇するはずだ」と信じて毎日過ごしました。免許を取りなおすことが、上昇の絶対条件だと信じていたのです。いつも癒されるのは、大好きなHOT RODのこと、エイトのこと、そして自分の周りにいてくれる仲間や友達のことを考える時でした。人に優しくしてほしいくせに、人に優しくできない自分がいたのです。好いてほしいくせに、好こうとしない自分が、そこにいたのです。 全てを逆にすればいい。 簡単なことでした。



 
 そうして一年後、試験場に行って免許を取り直しました。車検もナンバーも切らさなかったエイトにまた乗れるようになりました。オートバイにも乗れます。そして驚いたことに本当に僕は上昇しました。人生を共に歩んでゆくエイト以外の存在との出会いも、このときでした。すべてエイトがきっかけになるなんて、変な話ですね。あと残っているのは、エイトにやさしくすることだけです。

 また山を走るようにもなりましたが、この頃はまだ車高を上げたり、勢い良く走ったりする事に大した疑問は感じていませんでした。しかしどうやらエイトがきつそうです。ボディはぼこぼこになって、おまけに飛ぶように走っていると走破したという感動があまりありません。そこでサスペンションも見直して、車高をなるべく低く、良く縮むようにバネを組み替えたりしました。そうして車を壊すような走り方ではなく、ノロノロと這うような走り方に改めました。以前の悪行で一年多く学校へ通う事になっていましたが、一緒に走りに行く仲間も卒業してしまいました。これをきっかけに、少し山を走ることはお休みにして猛烈に、今まで以上に不具合を修理するようになりました。

 山ばかりではなくて、遠くの街や海。いろいろなところへ行きました。とにかくエイトと一緒に過ごせる事が幸せでした。そして「工業製品の芸術的可能性」という、Custom Cultureを題材にした論文で無事に卒業し、兵庫県に戻りました。



 
 兵庫県に戻ってくると、アルバイトなどで使う事が無いので心置きなく修理する事ができます。ホームページを作って、誰が喜ぶともわからない情報を公開し始めました。そうするとまた仲間が増えました。

 エイトはというと、とにかく不具合のあるところは分解して、組み立てなおしました。交換しなければならない部品はエイト仲間が提供してくれました。排気ガス規制で乗れなくなりそうになりましたが、それも何とか乗り越える事ができました。その間に、今では黄色になっているSJ20Vも修理しました。オートバイも修理しました。エイトも多分、今までで一番調子がよいくらいです。改良箇所も、全て自分で強度計算して改造申請しました。しかし、彼女の両親に挨拶するために広島までひた走った誕生日の夜中、高速道路でエンジンを焼きつかせてしまいました。最後に聞いたエイトの声は、心臓がつぶれる悲鳴でした。

 牽引されて戻ってきて、何とか修理しようとエンジンを分解しましたが、ボロボロになってしまっていて治せませんでした。エイトにもやさしくすると言っておいて、僕はエイトを壊してしまいました。




「本当に大切にしていると、言えますか?」



 僕はこの時、決心しました。エンジンはエイト仲間に譲ってもらった別のものを整備して積み替えたので、機能的な不具合は全て無くなっていました。残っているのはぼこぼこの、いがんだボディでした。



「本当に大切にしていると、言えますか?」



 とにかく完全に修理する、というのが僕の決心でした。交換するボディも、エイト仲間が自分で使う予定だったボディを笑顔で差し出してくれました。もう迷う事はありません。とにかく必死で修理しました。今までのいろいろなこと、そしてこれからのいろいろなことを思い出し、考え、とにかく必死で修理しました。今できる事を一生懸命にしました。
 




 今ここに、見違えるような白いエイトがあります。

 僕がエイトに乗り、そして走るのは、希少だからではありません。名車だからでもありません。それは周囲が勝手に決めつけて言っているだけで、薄っぺらな感想でしかありません。僕がエイトに乗り、そして走るのは、かけがえの無い存在だからです。沢山の人の気持ちや思い出が、白く塗りこめられた少し古い車体に乗っているからです。今ようやく尋ねたい



 僕と一緒で、幸せですか と。   

Text by 8mano 2007/09